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第4話 夜会という処刑台

Author: 板野かな
last update publish date: 2026-09-02 18:00:49

 処分は、その日のうちには下されなかった。

 もっとも、それは父の情けではない。

 麗香れいかは離れへ閉じ込められ、人との往来を断たれたまま、障子越しに散りゆく春だけを眺めて日々を過ごした。

 食事だけが無言で運ばれ、離れには風に揺れる木々の音だけが残された。

 庭の枝垂しだれ桜は、盛りを過ぎた花びらを朝ごとに散らし、春風が吹くたび、淡い薄紅の群れが障子へ影を落としては、そのまま地へ吸い込まれるように消えてゆく。

 麗香は鏡台の前へ座り、その景色を眺めながら、首元へそっと指を添えた。

 あの夜に刻まれた印は日に日に薄れ、今では鏡へ顔を寄せてようやく分かるほどになっていた。

 まるで、あの夜そのものが夢であったかのように。

 それでも、香りだけは消えなかった。

 沈香じんこうを焚けば、磨き込まれた木の香りの奥から、あの人の気配が静かに蘇る。

 名も知らない。

 顔も、薄暗い月明かりの中で見た輪郭しか思い出せない。

 けれど、額へ落とされた口づけと、耳元で囁かれた低い声だけは、春霞はるがすみのように胸の奥へ残り続けていた。

 そんな日々が幾日か過ぎた朝、閉ざされていた障子が、何の前触れもなく開かれた。

 春の日差しを背にして立っていたのは、父だった。

「支度をしろ。今夜、華族会館で夜会がある」

 挨拶もなく告げられた言葉に、麗香は静かに頭を下げる。

「九条くじょう家と珠緒たまおの婚約が、正式に発表される。桐生家の者として、お前にも出席してもらう」

 胸の奥が、微かに軋きしんだ。

 それでも麗香は視線を落とさず、父の言葉を待った。

「お前に最後の機会を与える。その夜会で誰か一人にでも選ばれてみせろ」

「……選ばれる、とは」

「妻でも、妾めかけでも構わん。名のある男が、お前を引き取ると申し出れば生かしてやる」

 あまりにも冷酷なその言葉に、麗香は一瞬、その意味を理解できなかった。

 父はわずかに眉を寄せる。

「桐生きりゅう家の娘が、婚約者を裏切り、得体の知れぬ男へ身を任せたと知れれば、我が家の名誉は地へ落ちる。だが、そんな傷物でも別の有力者が望んだとなれば、世間は多少なりとも黙るだろう」

 傷物。

 その言葉は、頬を打たれるよりも深く胸へ突き刺さった。

「誰にも望まれなければ――」

 父はそこで言葉を切り、離れの奥へ滞る沈香の煙を、煩わずらわしいものでも見るように目を細めた。

「今夜限りで、お前は桐生家の系譜から消える」

 その口調は、娘へ向けるものではなかった。

 傷のついた家財の始末を告げる、当主の声だった。

◇

 帝都最高峰の華族夜会は、春の終わりに一夜だけ咲き誇る花のようであった。

 華族会館の磨き上げられた床には、幾百もの灯が黄金色に映り込み、その上を滑るように進む人々の姿は、西洋から渡ってきた絵葉書の一場面をそのまま帝都へ移したかのように美しい。

 麗香が絶望を知ったあの夜と同じく、この場所は多くの香りで満たされていた。

 甘く熟れた果実のようなものから、雨に濡れた若葉のように瑞々しいものまで、数え切れぬほどの香りが大広間へ満ち、人々の身分も、育ちも、秘めた欲望さえも、言葉より雄弁に語っている。

 誰もが自らの香りをまとい、一輪の花として社交界へ咲き誇る中、麗香だけは香りを持たぬ花として、その花園の片隅に立っていた。

 今宵の装いは、薄紫の訪問着だった。

 銀糸で描かれた藤の花は、灯を受けるたび控えめに輝き、白い帯には母が好んだ小さな桐の紋が織り込まれている。

 華美ではないが、麗香の静かな佇まいによく似合っていた。

 けれど、彼女へ向けられる視線に、その美しさを愛でる色はなかった。

「ご覧になって。あの方が例の零·香さんよ」

「まあ、お顔を出せるなんて、随分とお強い神経ですこと」

「香りも持たないうえに、婚約者から裏切られたそうですわ」

「いいえ、裏切ったのはご本人だとか」

 笑みを崩さぬまま交わされる囁きは、耳へ届かないことを前提としているように小さく、それでいて当人だけには必ず聞こえるよう、巧妙に声量を選ばれていた。

 誰一人、麗香の前へ立って罵る者はいない。

 扇の陰で。

 酒杯の向こうで。

 祝福に満ちた笑顔を浮かべながら、見えない刃だけを静かに投げつける。

 それが、この華やかな世界の作法だった。

 麗香は背筋を伸ばし、何も聞こえないふりをして、大広間の奥へ視線を向けた。

 やがて、円舞曲が静かに止み、楽団の最後の一音が高い天井へ溶けてゆく。

 人々のざわめきが波のように引き、会場中央へ視線が集まった。

 そこには、九条くじょう慎太郎しんたろうと珠緒が並んでいた。

 慎太郎は正装の燕尾服をまとい、その胸元には九条家の紋章を象った銀の飾りが輝いている。

 珠緒は純白に近い淡桃色の洋装を身にまとい、胸元には幾重もの真珠を飾り、結い上げた黒髪には春の薔薇を一輪だけ挿していた。

 可憐で。

 清らかで。

 姉の婚約者を奪った女とは、誰一人思わぬほど美しかった。

「本日をもちまして、桐生珠緒嬢との婚約をご報告申し上げます」

 その言葉が終わると同時に、大広間は割れんばかりの拍手に包まれた。

 祝福の言葉が次々と降り注ぎ、珠緒は恥じらうように睫毛まつげを伏せながら、そっと慎太郎の腕へ手を添える。

 その仕草さえ、誰からどのように見られるかを知り尽くしているように美しい。

 楽団が再び華やかな曲を奏で始めると、慎太郎と珠緒は人々の輪の中へ迎え入れられ、差し出される酒杯を受け、花束を抱き、まるで初めから二人の婚約こそが望まれていた未来であったかのように、惜しみない祝福を浴びていった。

 その光景を、麗香は遠くから見つめていた。

 胸は痛まなかった。

 少なくとも、そう思いたかった。

 けれど、かつて自分が立つはずだった場所へ妹が立ち、自分へ向けられるはずだった祝福を一身に受けている姿を見るうち、呼吸が少しずつ浅くなり、大広間を満たしていた無数の香りが、喉を塞ぐ濃い煙のように感じられてくる。

 耐えきれなくなった麗香は、人々の笑い声を背に、大広間を後にした。

 二階のバルコニーへ出ると、春の夜風が熱を帯びた頬を優しく撫でた。

 眼下には帝都の灯が宝石のように連なり、散り始めた桜が夜空を淡く染めている。

 麗香は石造りの欄干へ両手を添え、ようやく息を吐いた。

 夜風だけが火照った頬を撫で、華やかな喧騒は遠く背後へ消えていく。

 その静けさに包まれていれば、今夜が最後の夜になるかもしれないという恐怖さえ、少しだけ忘れられるような気がした。

「逃げていらしたのね、お姉様」

 振り返ると、珠緒がいつもの柔らかな笑みを浮かべて立っていた。

「私達が祝福を受ける姿を見るのは、お辛かったでしょう?」

 麗香は答えない。

 珠緒は欄干へ手を添え、小さく笑った。

「全部、私が仕組んだのよ」

 その一言で、春の夜気が凍りつく。

「婚約発表も、その前にお姉様の評判を落としたことも」

 珠緒は楽しげに続ける。

「あの夜、お姉様を襲わせたのも私。お父様もご存じよ」

 麗香は息を呑んだ。

「……どうして」

「だって、お姉様は何でも持っていたもの」

 珠緒の笑みは少しも崩れない。

「お母様も、慎太郎様も、みんなお姉様ばかり見ていた。だから全部、私のものにしたかったの」

 その時、背後で扉が開く音がした。

 振り返ると、慎太郎が立っている。

「慎太郎様。今の話は、本当なのですか」

 麗香の問いに、慎太郎は長い沈黙の末、目を伏せた。

「……互いの家のためだ」

 ただ、それだけだった。

「珠緒を責めても何も変わらない。君が黙っていれば済む話だ」

 その瞬間、麗香の中で何かが静かに終わった気がした。

 幼い日の約束も。

 初恋も。

 信じ続けた未来も。

 散る桜とともに、音もなく胸の奥から消えていった。

 麗香は二人を見据えたまま、小さく息を吸う。

「でしたら、皆様の前で真実を申し上げます」

 踵きびすを返し、大広間へ向かおうとした、その時だった。

「ごめんなさい、お姉様」

 珠緒の囁ささやきとともに、背中へ鈍い衝撃が走る。

 足元が消えた。

 夜空と帝都の灯が反転し、桜の花びらだけがゆっくりと視界を横切ってゆく。

(ああ……終わるのね)

 不思議なほど恐怖はなかった。

 父にも捨てられ。

 妹にも奪われ。

 愛した人にも見捨てられた。

 もう、この世へ未練など残ってはいない。

 そう思った瞬間。

 誰かの腕が、落ちゆく身体を力強く抱き止めた。

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